身近に小さな文明論{No}号  2004/06/13

身近に小さな文明論・・2004.06.13

麦秋の頃

麦秋の季節になりました。といいましても、我々が「麦秋」という言葉と無
縁になってからもうどれくらいになるのでしょう。

その言葉と無縁になったのは、もはや麦畑など目にする機会がなくなったか
らでしょうか。一年を通して何でも揃っているスーパーを思うと、もはや季
節感など無用になったとでも言うのでしょうか。それともIT時代を生き抜
く我々にとって、もはや季節感などに現を抜かしている暇などなくなったの
でしょうか。いずれにしても眼前の現実から季語が消えたのは確かなようで
す。それを寂しいと思うのか、それとも合理的だと誇るのでしょうか。いや
きっと大部分の人にとって、季語は漂白されただけなのでしょうね。

ところで麦秋の頃と言うのは麦の穂が黄色く色づく今ごろ、5−6月頃を言
います。「秋」の文字が付いていますが決して秋ではありません。古来麦は米
の裏作として初冬に種を蒔かれ、厳しい冬を越して、今の頃に収穫されてき
ました。それなのになぜ「秋」なのかといいますと、「秋」という文字は「飽
き」に通じ、食い「飽きる」ほどの収穫を願う思いがこめられていたのです。
ついでにいうなら米の実りは「米秋」となり、こちらの方はすべてに「秋」
に通じております。

ところで大麦も小麦も海外から安い値段で輸入されるように変わったのはい
つのことだったのでしょうか。確か1950年代くらいまでは日本中の田畑
を秋色の麦秋が埋め尽くしていたはずです。「麦畑・・」という歌そのままの
光景だったのです。多分それは日本の高度経済成長とともに、その怜悧な法
則が追放したのでしょう。ところが、です。最近また麦秋の光景を見ること
が出来るようになりました。テレビに映った山村のうどん屋が遠くの市街地
からの客で連日賑わい、その根には地元で生産された麦を使っているところ
にあるというのをご覧になったことがありますか。地元産という付加価値に
余計な金を払うお客が増えたと言うことです。それに伴って麦秋の光景が戻
ってきたのです。そう言えば麦に限らず、蕎麦畑も目にする機会が増えまし
た。

現代の豊かさは均質化を促進しました。誰もが建前として否定しない公平感
を手にしました。しかし人間の本性には支配欲も少なからず疼いているもの
なのです。もはや公平感など振り捨てても他人から自分を差別化したい・・
麦秋の光景が戻ってくる根にはそうした人間の本性が荷担しているのです。
あなたもそう思いませんか?

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